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Special Interviews
―― JAZZやファッションだけでなく、60年代は風俗・文化の生成期でいろんな意味で楽しめたのでは?
清水氏: おかげさまで大学生の多感な時に60年代を過ごせたので、無茶苦茶おもしろかったことは確かです。現在の仕事もその当時に素地ができたと言えます。大学3年〜4年の頃で、原宿にあったセントラルアパートにある「アド・エンジニアーズ」という広告制作会社でアルバイトをしていました。何もない時代の原宿です。大雑把に言えば「キディ・ランド」と「ロイヤル飯店」、「クレドール(後のレオンになる)」という喫茶店だけ。セントラルアパートの1階にあった「クレドール」には、僕らみたいな学生はほとんどいないし、玄人風のちょっと怖い人ばかり。セントラルアパート自体が広告関係の巣窟と言われていましたから。浅井慎平さん、稲越功一さんなどの後に有名になるカメラマンがまだ無名で若くてギラギラしていた頃です。
アルバイトをしていた「アド・エンジニアーズ」は、西尾忠久さんという後に広告業界の重鎮となる人が社長を務めていた会社です。代々、成蹊大と武蔵大の広告研究会の学生が入れ替わりバイトに行くという伝統があって、僕は2年〜3年くらい週一とか週二くらいのペースで通っていました。
社内には米軍基地に置いてあるようなコカ・コーラの大きな赤いベンダーが据え付けられていて、何とコインを入れずに飲める無料方式。その上アメリカの大企業にあるような当時珍しかった大型コピー機がオフィスに入っていて、これまた使い放題。僕ら学生バイトにも利用を許されていたので、使う、使う。試験前には授業のノートを無料(ただ)で大量にコピーしていました(笑)。また、会社が原宿界隈の飲食店と提携していて、残業すると食券がもらえるんです。だから、夜は貧乏学生にはふさわしくない豪勢な食事をしたり酒を飲んだりして楽しかった思い出があります。セントラルアパートにはフィリピン料理屋があったり、その隣に「杉の子」という和食屋あったりして、よく食べに行きました(笑)。
―― バイトからそのまま現在の職業へと続くわけですか。
清水氏: 「アド・エンジニアーズ」にいたコピーライターの先輩に目を掛けてもらっていて、「オマエもバイトしている場合じゃないからそろそろ仕事をしろ」ということで紹介されたのが、伊勢丹のハウス・プロダクション(企業内系列プロダクション)だった会社です。そこには、9年と8ヵ月くらい勤めていました。ただ、就職したのは卒業後ではなく、大学3年の時です。ゼミが残っていたんですが、ゼミのある月曜日は当時伊勢丹が休業日。系列のプロダクションも日・月曜休み。だからゼミをまったく休むことなく、火曜日から土曜日まで会社へ出勤して、月曜日はちゃんと学校に行き、無事卒業することができました(笑)。
会社に入って最初の1年目の仕事はぺーぺーなのでチラシとかDM(ダイレクトメール)が主だったものです。会社が当時ダイハツ自動車の仕事を請け負っていて、けっこうおもしろい広告を手掛けていたので、それを手伝うことから次第に本格的な広告制作へ入っていきました。そして、20代の後半でTCC(東京コピーライターズクラブ)の新人賞を獲ることができたんです。
その頃、スーツを着るときは「ブルックス・ブラザース」を選んでいましたね。すでに「ブルックス・ブラザース」が日本に上陸・出店していましたから。広告会社のコピーライターといえども、ブレザーやスーツは必須でした。系列会社の伊勢丹はうるさくなかったのですが、伊勢丹以外のスポンサーにうかがう時は、きちんとした身嗜みで行かなければなりませんでしたから。ある意味、クリエイターという自由な職種でも僕らの世代はビジネス・スーツや正装の基本というかルールを知っているんで、お洒落な人は意外と多かったように思います。
―― 清水さんは、60代のいまも現役で、しかも管理職ではなく、ご自身が現場で仕事をされていますが。
清水氏: 60代を迎えたという感慨はまるでありませんね。50歳になったときはいろんな意味で感慨はありましたけど・・・。確かに60になったときにはあと何年続けられるかな・・・とは一瞬思ったけれど。今はぜんぜん何もない。感激もないし、悲嘆もしていない。相変わらず30〜40代のノリで仕事をしています。理由はなぜなのかわからないけれど、現場に行かないと納得しないというか、しょっちゅう現場に行く仕事ばかりだからなのかもしれませんね。それとも、現場での取材、撮影などの仕事が好きで好きでたまらないからでしょうか。回数は減りましたが相変わらず海外へ出かけていますし、若い社員を使うこともなく、自分ですべての仕事を抱えています。新しい技術やIT・コンピュータの世界と向かい合う仕事もぜんぜん苦ではありませんしね。新しいモノに対する好奇心も衰えていない。同世代の知人に言わせると、それが不思議だというのですが。
肉体的にも苦痛を感じたこともありませんね。いま、家で30分かけてほぼ毎日ダンベルを挙げるトレーニングを続けています。おかげで、胸板が厚くなってしまって。ですから、プロテインの摂取を多少抑えているほどです。batakでスーツをオーダーするときも、胸板のつくり込みで中寺さんに迷惑をかけているかもしれませんが(笑)。
HACHETTE FUJINGAHO
団塊世代のお洒落バイブルといえば、「TAKE IVY」(婦人画報)。初版は1965年。著者は、くろすとしゆき、石津謙介、長谷川元、林田昭慶の4氏。現在は復刻版として、社名が変わったアシェット婦人画報社から増刷されている。アメリカのアイビー・マニアの間では高値で取り引きされており、アメリカ・ファッション業界でも60年代を知る貴重な資料として重宝されている。¥1890円
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